昭和35年(1960年)6月28日の豊橋市長選で当選した河合陸郎氏は7月1日に登庁し、「産業都市化」「農漁民の体質改善」「市民サービスの向上」「経済たくましい都市づくり」など所信表明した。つづいて同7月16日に市議会で青木助役の選任が承認された。
10月1日付で部長制など機構改革を伴う大幅な人事異動を断行。
そして、
10月30日付けの青木茂(助役・後の市長)試案図がいわゆる”青木構想”として郷土の新聞「不二タイムス(
現「東日新聞」)に載った。
その一部をみると、
昭和35年10月24日に豊橋市公会堂貴賓室で県と東三河四市長・会頭らの「県地方計画に関する懇談会」が
開かれた。その時、
県港湾課長は「姫島付近に1万トン級の港をつくる。しかし、衣浦港を造成中などで、そのあとになる。」と説明したが、
青木助役は「そんなチッポケな案では承知できない。県がやってくれなければ、中央に直接働きかけて、私どもの構想を実現させる」とタンカを切った。
中央省庁を動かそうと、
神野太郎氏が「ガス事業」の関係で親しかった通産省の矢野俊比古氏に、
青木茂氏が同級生で通産省にいたこともある松永富士雄氏(後の東三河工業開発専門調査会事務局長)を通じて働きかけ2つラインが一体になった。
事実、青木助役はこの案を中央に持ち上げた。(以下更に要約)
船長協会・船主協会などへ持ち込み、知人を通じて日本港湾協会の意見も聞いた。こうした根回しで”青木構想”は徐々に中央でも注目されるようになった。
東三河産業開発連合会(神野太郎会長)は、昭和36年(1961年)4月に日本の官学界の権威を網羅した
東三河工業開発中央専門委員会を設置する。
同連合会は前年の35年7月、神野太郎氏が中心となり、東三河自治体、経済団体、民間企業などに呼びかけて結成した官民合同の組織で、東三河の新しい開発計画に取り組んだ。
中央専門委員は、佐藤弘
一橋大学名誉教授(総括・産業・工業用水)、鈴木雅次日本大学教授(港湾)、富樫凱一日本道路公団副総裁(道路)、八十島義之助東京大学教授(鉄道)、高山英準東京大学教授(都市計画・観光)、荻田保地方財政審議会委員(地方行財政)などそれぞれの分野でわが国最高の権威者を委員とし委嘱した。幹事には関係各省の中堅クラス20人を委嘱配置した。そして、当時は奇想天外とも言えるアイデアを、”青木学校の優等生”といわれた若手課長補佐クラスによるプロジェクトがその計画成案へと肉付けしていった。構成員キャップ
福井博(工業開発課長)、西野善一(土木課長補佐)、浪崎敏武(行政課長補佐)、長谷川博彦(商工観光課長補佐)、村田泰司(工業開発課長補佐)、平松晏一(土木課災害復旧係長)、河合彦一(東三河開発連合会事務局長…民間)
全員30才代河合陸郎 青木茂(広報紙) (偲ぶ会風景) 神野太郎(会社紹介) 一枚の色紙(技科大編)豊橋・浜松二眼レフ経済圏 (河合陸郎)名誉市民 のうち10人の方と関わりました。青木構想(連隊旗)説明写真 @「ハーバーアイランド構想」 検索 ハーバーアイランドは、既成事実として日本全国
で造成されていますが、三河港はインターチェンジ
方針を採りましたので出て来ません。
そこで構想発表の原点が何処かという点を明らかに
することが青木さんに報いることと思い発表した。 A「青木構想」 検索 B「河合陸郎」 検索
C「豊橋市長 河合陸郎」 検索
D「豊橋市長」
検索(2P目) E「都市空間の整備の方向」 検索 F「豊橋のまちづくり」 検索
G「まちづくり提案の原点」
検索
記録のページ目次 豊橋のまちづくり提案 w5目次 総TOP
都市空間の整備方向
三 河 港 空から見る三河港 IC 人生のポイント記録 生活便利帳1
(Google Earth)
沖縄のハブ海空港化 豊橋市長青木茂の生涯 三河港外国船出入 ペリー黒船来航の
僅か16年後には
「三州豊橋」にも民間
の蒸気外輪船が運行