回顧編27
北陸・信越の港湾視察写真 昭和38年(1963年)3月(50年前)
新産業都市指定に向かって、まっしぐらの時期です。
名古屋→富山まで高山線を使ったのは青木茂助役には、一つの理由があったと思います。それは、早春の高山線は日本列島の山間部はどのような構造にになっているのかと自分の目で確かめようと思っていたようであります。それは、台湾で生まれ昭和22年(1947年)初めて日本の地を踏み、国の中枢機関におったとはいえ日本の土地の属性を知り得るには、まだ時間が浅過ぎた。昭和22年(1947年)に日本の地に立ってから13年後の昭和35年に豊橋市助役。
助役就任後、昭和37年(1962年)には、
全国市長会「欧米都市行政視察」。
そして翌年の昭和38年(1963年)は、豊橋へ来てからまだ3年余しか経っていない。
まちづくりを進めるに当たっては、早急に日本の太平洋岸〜山岳地帯〜日本海側一帯の気候と地勢上の属性を知る必要がある。
そのような時期に新産業都市指定の地域候補地となったのには、何をさて置いてそれを自身で確認しておきたい。
青木構想をより確かなものしなければならない。途中「猪谷」を見付けるとオリンピック選手の猪谷と同じだと言った。
「熟慮に熟慮を重ねいざとなれば総動員」の時期は差し迫っている。
そうした観点で「東三河地域新産業都市指定構想」に心血を注ぎたいと考えた上での早春の視察となったのではと確信している。
(名古屋→富山まで高山線沿線の早春の画像)
富山駅に着くとそこには雪は全くなかった。 ←
2013.6.07追加
富山市関係者の説明を聞く(泊)〜高岡(港湾関係視察) 富山→
(北陸本線列車脱線転覆事故)親不知〜筒石駅前で船かタクシー を確保するため寒い中を躍起で探す。
※機関車脱線転覆前のトンネルでは、蒸気フル稼働で何時でも前進後退出来るよう煙モウモウ。様子を見るためデッキに出たら中々ドアを開けて貰えず苦しかった記憶が今でも甦ってくる。
駅前と言っても海岸端(記念写真) タクシーを確保し一路北陸本線の駅を目指す。
新潟まで13時間半を要した。新潟では、広報課長補佐兼秘書係長(河合陸郎市長秘書)の杉元正彦さんが自治大学で同期であった新潟市職員の方が出迎えに来てくださり、旅館まで案内される。
各市とも「市長さんとの意見交換や幹部職員の方」の現地案内など興奮を感じた。
確か筒石駅プラットホームであったか思うが、写真を撮っておこうと助役に言われ1枚撮って頂いたが50年後開いてびっくり。
(※その後は、自動車や飛行機利用などで筒石駅を通過したこともなく
「プラットホームがトンネル内」あるなんて知らなかった。)
新潟視察後→東京(泊)。「横浜港」を見ておくのも勉強だとの助役に言われ横浜港に行き、あちこち見た後マリンタワーにも乗り港を上からも見た。
午後「横浜駅新幹線ホーム」で合流する。
東京経由は周遊券が利用出来るなど利点があり土日と重なり、1日延びたが青木茂助役(後の豊橋市長)がポケットマネーで出してくださった。
帰宅後、鱒寿司が届きビックリ両親に渡し家族全員で頂いた。
※1泊1000円有れば十分な時代だった。
私は、奨学資金貸与者の関係で当日東京到着後電話で宿泊を申し込むと農林省の宿舎が割り当てられた。
横浜→豊橋 これも何かの縁であろうと思い2
013.4.07UP。
東三河工特地域指定までの経緯