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二女の長男(孫)が小学1年になる。(2013.1)

私は、戦後の昭和22年に小学校に入学するが、
祖父母や叔母夫妻は、豊橋空襲までは豊橋市新町や八町に住んでいたが、家は焼失してしまった。
ただ、私の家は、東田小学校(国民)は焼失してしまったが延焼を免れた。
祖父母や叔母夫妻一家は、三ノ輪地区に仮住まい宅を見付けた。
祖父母は、長男を夭折し三姉妹が残った。

その祖父が生まれた時の名前の由来は…
さなる に望みは 秘そめども 八十一の 長命をす」と聞いている。
何と優雅な命名なのかと感心した。
長女だった私の母夫妻には、戦後を含めニ男三女が授かった。

終戦直後、私が「ニッポン負けた!ニッポン負けた」言っていたのを知っているかと聞かれたが、よく覚えている。
戦争中、夜中に母親が居らなくなり妹が泣いて泣きやまらず困り裏の人に聞き直ぐ来るからと泣きやまらせたり、昼間道路でポカンと立っていると、今「高師」に爆弾が落ちた何してるかと怒鳴られたが、どうして5kmも離れている高師と分かったのか不思議でしかたなかった。
豊橋大空襲間近の時に、昼間防空壕の狭い除き隙間から見えた攻撃弾が直撃コースを辿っているいるように見えた。みんな外に逃げろ!と言うなり外に出ようとした。暫くして直撃はせず近くの東郷町の全久院に流れたという。 
終戦になり、近所の子供仲間でそこら中を歩きまわった。他の項目でも書いてあるかとと思うが、忘れもしないのが、大池横の「向山の動物園」は、当時柵はなくっており自由に出入りできた。まだ腐敗していないシカ、シマウマなど20〜30頭とも思われる野獣の死体が飛び込んできた。場所は地べたではなく板で作られた長い棚上の一角であったかと記憶している。ここでも別の角度から既に書いている。

自宅斜め前の子は、焼夷弾の油脂を取りに行き爆発し焼死したと聞いた。
また自宅前の家は、旅館だったようで多くの人が宿泊や休憩に来ていた。
そして我が家近くに米軍のジープが止まり、子どもが集り「ギブミーチョコ」を言っていたと思う、私も外に出たが貰おうしなかった。あるいは勇気が無かったのかも知れない。
月夜の夜は、カゲフミなどをして遊んだ。

三ノ輪町の「祖父母の家」に孫達はよく集まった。
東田から三ノ輪町までは3キロbほどあり、距離がある私たちは通常兄弟2人である。
祖父母の家に行けば、卵かけご飯が食べられるのでよく行ったものである。
しかし、戦後の混乱期、末の妹は夭折ししてしまった。
夜トイレに行くのは怖くて行けなかった。
また、供養のお参りは三ノ輪から更に数キロあるお寺までは私たち子ども行った(期間は定かでないが49日以上と思われる)。終戦時に生まれた妹は、いつも疲れた「おんぶして」言い、背負った記憶がある。

母は、兄弟2人は一緒に行動してはいけないと事あるごとに言っていた。
ある時、私が走っているとき今のサッカーでゴールを決めた時「腕を飛行機の翼のように」拡げたり角度を付けて走る姿を見てそんな可笑しな恰好するではないとよく言われたものだ。
その母は、尋常小学校卒業後、東京に出て親戚にの家に下宿し、澁谷の駅前を毎日通ったが「忠犬ハチ公」生前の生きた様子を見たこと話してくれたが汚れた汚い犬だったと…。 若い乙女にはみすぼらしい姿に写ったと記憶しているようであった。 
関東大震災のことは話さなかったが次女の叔母が様子を話してくれた。隣の人が成績が良かったら何でも買ってやると言ったので成績表を持っていき「家を建てて!」と言った言う。

私の次女も妻の親戚の跡取りに家を建ててと言ったが、建ててくれるはずもなく私が建てて、母屋部分を渡してしまった。
子どもが欲しいことに、きずいて言ったと思うがそんなに右から左と言うわけにはいかない。

そこには、体が弱いと言われた未婚の叔母(次女)が居た。
小学校入学に際して、いつもいつも聞かれたのは「大きくなったら何になりたい」と言うことであった
兄は、つなぎを着るような仕事をしたい。
紀ちゃんは何になりたい!
私は、「背広を何時も着てゆく」仕事をしたいと言った。
その叔母は、87才の時呆気なく亡くなったが、生前「紀くん」は昔言った通りの仕事に就いたね。
と言って喜んでくれた。(何処かに書いてあるのだが検索で出て来ない)

考えているうちに出てきた(恐怖に慄いた一夜)
 それに引換え結婚したした三女の叔母は83才時にこんなこと言っていた

祖父だって、私が助役秘書になった時知り合いの議員に触れまわすなど喜んだものだ。
それで議員間から戦前戦後の祖父の生き様を聞かされた。それは市政功労者を慰労する懇談会の席上である。
時は経ち、祖父と東田の家で同居することとなった。その祖父名前のとおり81才まで生きたが、私が28才で自宅を建てた時は二川(大岩町)まで、東田から国道一号線を自転車に乗って祝いに来てくれた。
妻は一升瓶を土産に渡したと言った。

また、話は異なるが中学校の高橋和夫音楽教師は、私が左遷され議会事務局から図書館へ所属替えとなった時、小中学校長会が豊橋市公会堂開催され檀上で管理職の紹介に当り、高橋和夫校長は左遷とは感じず晴れ舞台に立ったように喜んだ。

そんな時でも、私は愛大・豊橋技術科学大学図書館長(前副学長や次期法学部長・学長)と蛭まず全力で図書館業務に励んだ。 (愛知県図書館長会議や図書館業務全般である)

そして退職後に入会した2つ目の同好会「窓の会」
は、愛知県東三河地域の言論界、教育界、医師などの方も多く会員となっており、戦後の混乱期に小学校入学以前に叔母に言ったことを一路に歩んできたものと思っている。

そこで、同じ居宅にいる「二女夫妻の長男」に聞いてみたいと思った。
聞こうと思ったら、その日からお泊り会と言って翌日二女の「長女と次女に聞こうと思ったら」、父親もいなかったので父親の実家に行ったのか思った。
今のうちに父親の実家に帰りお婆ちゃんにも甘えるのもよいと思い自室に戻る。

そして動植物公園・自然史博物館にぶらりと出かけてみた。
後輩も、この3月末で定年退職とのこと。収納率向上対策で人一番努力したことなどを思いつつ、 これまでの付き合いに感謝しながら「さいごの恐竜ティラン」の大型映像観覧と植物園ゾーンをを2時間半かけて歩いたが疲れて帰宅したら夕食時まで寝てしまった。
夜、NHK大河ドラマ「八重の桜」と「ヒューマノイド」テレビを見て、次なるテーマを見つける。


将来、何になりたいか!…
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