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  生活便利帳 1

      皮膚細胞の不思議    妹宅の庭木の選定で塀から落ちて骨折
    

2016年暮れ、妹宅の庭木選定で塀から落ちて骨折全治3か月「顔特に眼鏡部分・手首・脊髄にひび・胸骨圧迫」などに負傷した。2日ほどは、立てたが3日目から立てなくなり入院した。

症状は,手、足等に小さな水泡ができそれが小さな水泡が引いたら、大きな水泡が出てきた。転院時には、水泡が見えないギブス装着部は皮が何重にも剥がれた傷は2か月ほどで良くなるが、手首の治療と、足の壊死した個所は2か月過ぎてからも治療が続く。
脊髄は、痛みが続き困難を来した。コルセットを4か月ほど付け、退院後老人福祉センターやスーパーのイベントの電磁治療等をし8か月後に位には徐々に良くなる。
手首に入れたパッキンは、手術後9か月目に取り外しの手術を受ける。

入院中に約50年前の出来事が蘇ってきた。それは、私が役所に入って最初の課に配属された時のことであります。1950年に河合陸郎市長に青木茂助役の同意議案が議会に上程されたくだりである。青木助役の議会が同意された同じ日に、私は総務部行政課文書係に異動になりました。それは青木茂氏が台湾総督府ではここでは有資格者いらないと言い最初の配属先が文書係であったことが思い出される。その1年3か月後「助役秘書」に抜擢され。2年3か月間助役秘書として奉職する。その間,中央省庁、本省各省や旧国鉄本社などへ幾度となく随行でヤマサ竹輪をもって同行。結果として東三河地域が工業整備特別地域として指定され、さらに東海道新幹線豊橋駅が停車駅となる。青木茂氏本人は三河港造成に心血を注いておられた。

時代は進み、私が区画整理課時代に勉強し、都市空間の整備の方向(豊橋のまちづくり提案)を書いたが、市役所奉職以後これまで育てあげて頂いたご恩に報いるものとし、当時、豊橋市長になっていた青木茂氏に捧げるものとして執筆したものと言っても過言ではない。しかし、同「都市空間の整備の方向」は、次期市長がことごとく私の提案事項を活用し、私を左遷したままで市長を辞職するまで止めなかった。これらのことは、豊橋のまちづくり提案の「第三の手法により本計画の実現」で書いてあります。その最後には、死の直前に私の母が言ったことを追加で書き加えました

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